シャルロット・ペリアンと広島

1940年、フランスからはるばる船に乗って日本にやって来た、一人のフランス人女性がいます。
彼女の名はシャルロット・ペリアン。建築界の巨匠、ル・コルビュジエとの共同作業により数々の名作をこの世に送り出し、戦中・戦後、日本のモダンデザインの発展に大きな影響を与えています。
refnet.tvでは、1月21日から広島市現代美術館で始まる「シャルロット・ペリアンと日本」展の開催を前に、全国で活躍されている広島在住の建築家、宮森洋一郎氏と遠藤吉生氏、東京からSIGNの溝口至亮氏の3名を迎え、広島の建築のことからインテリア、シャルロット・ペリアンのことまでお話を伺いました。

 

refnet.tvまず最初に溝口さんの方からシャルロット・ペリアンの功績と、日本との関わりを簡単に説明してもらっていいですか?
溝口詳細は広島市現代美術館で開催される展覧会を観ていただくとして、おおまかなペリアンと日本との交流をお話しさせていただくと、シャルロット・ペリアンは、日本の商工省(現在の経済産業省)の貿易局課長であった水谷良一氏と、ル・コルビュジエの事務所で共働していた建築家の坂倉準三氏の尽力により、輸出工芸指導の装飾美術顧問として招聘され、1940年8月21日に来日しました。
何故ぺリアンが招聘されたかと言うと、当時の日本は1929年の世界恐慌の影響で国内全体の経済が逼迫しており、政府として輸出品における収益、即ち、外貨獲得を戦争前に進めることが長期にわたる課題事項でした。
その輸出品開発の指導者として人選されたのがぺリアンだったのです。
(ペリアンより以前に、1933年にタウト、1939年にはシュレーマンをいずれもドイツから招聘しており、商工省として3人目。)
来日してからのペリアンは、当時、輸出工芸連合会に嘱託していた若き日の柳宗理先生らと共に、怒濤のごとく日本各地を回り、地元の職人の声を聞きながら指導にあたりました。また同時に、河井寛次郎氏、柳宗悦氏など民藝運動の創始者らとも親交を深め、モダニズムの視点と比較しながら、日本文化の美の本質を追求していったのです。
そして、来日からわずか7ヶ月後の1941年3月に東京高島屋、同年5月には大阪高島屋で「選擇・伝統・創造」展を開催しました。
しかし、あまりにも短期間の視察による展覧会であったため、同展覧会におけるペリアンの創造は、一部の方を除いては、なかなか理解を求めることはできませんでした。
また不幸なことに、同年12月からの戦争突入を機に、政府との契約を打ち切られてしまったのです。
戦争により日本から仏領のインドネシアに強制避難しなければならなくなり、約4年もの間、作家活動を休止しなければならないなど、時流に翻弄される時期が続きましたが、終戦後の1953年に、航空会社のエールフランス日本支社長の夫人として再来日を果たします。
その2年後、当時の高島屋常務取締役、川勝賢一氏と坂倉準三氏の度重なる力添えで、2回目となる「ル・コルビュジエ・レジェ・ペリアン3人展」を東京高島屋で開催します。
この展覧会は、更なるペリアンの創造力が遺憾なく発揮された展覧会となり、剣持勇氏・渡辺力氏ら日本を代表するデザイナーたちの礎となりました。
また、あまり知られていませんが、同時期に国際デザインコミッティー(現在の日本デザインコミッティー)に坂倉準三氏、前川國男氏と一緒に顧問として参加し、日用品の美の普及活動にも力を入れ、現在の「Gマーク:グッドデザイン賞」の基盤も作ったのです。
その後もいくつかありますが、代表的な作品として、東京・大阪のエールフランス日本営業所(1959-1960)の設計や在仏日本大使館公邸(1966-1969)、巴里大茶会の茶室(1993)などがあります。
また広島平和会館原爆記念陳列館(1952)を設計した丹下健三氏とも交流が深く、旧東京都庁都知事室(1957)墨会館(1957)旧草月会館(1958)にはペリアンがデザインした家具が多数納品されました。
そして、忘れてはいけないのが、ぺリアンが96歳で亡くなる前年の1998年、東京リビングデザインセンターOZONEで開催された日本で3回目となる展覧会です。この展覧会は70年にも及ぶペリアンの活動の集大成的展覧会となりました。
1985年にパリの装飾美術館で開催されるまで、大規模なペリアンの展覧会は開催されていませんでしたが、日本では20世紀に3度も大規模な展覧会が開催されています。
そして、今回の展覧会で4度目。それだけ日本とペリアンの繋がりは強くて深いんです。

写真左/1941年に高島屋で開催された「選擇・伝統・創造」展の図録
写真中/1955年に高島屋で開催された「「ル・コルビュジエ・レジェ・ペリアン3人展」のパンフレット
写真右/1998年にリビングデザインセンターOZONEで開催された「シャルロット・ペリアン 20世紀のパイオニア展」図録

◎広島の建築スタイル

refnet.tv/実は、ずっと前から聞いてみたかったことがあります。以前、東京の建築家の方と広島でミーティングをした時に、その方が
「これは広島派だよなぁ」って言われたんです。どこがですか?って聞いたら、「このディテールが」って。
それ以外にも耳にしたことがあってずっと気になっていたんですけど、広島派って何なのでしょうか?
遠藤/広島派っていうのは、特に形があるわけじゃないんですよ。十何年前だったかなぁ、近畿大学の広島キャンパスに建築学科があって、
そこに澤登先生という歴史の先生がいらっしゃったんですよ。
その方が中心になって設計教育をやるのに、広島の建築家を集めて3年生の授業に大量投入しよう、ということを考えたんですね。
refnet.tv/3年生に集中攻撃ですか。
遠藤/そうそう、そうやって刺激を与えようという作戦を考えてね。集められた人間がちょうど僕らと同じ世代で。
そこで気心が知れて来て、せっかく集まったんだから何かやってみようかという話になって、1998年に広島パルコで展覧会をやったんです。
当時、東京の建築家たちが広島の作家たちをまとめて呼ぶのに広島の連中とか広島派と言ったりしていたんですが、はっきり活字になったのは、その展覧会のブックレットに澤登先生が書いてくださったのが始めてだと思います。
refnet.tv/そうだったんですか。じゃあ、広島派とはポリシーやスタイルの統一を表す言葉というわけではなかったんですか?
遠藤/スタイルは、まぁ外から見るとやっぱりある。なんかね、モダンなんですよ。モダンな作風を地方でやってる所って意外となくて。
リージョナルっていう言葉がありますけど、建築にはそれぞれ地域性がある。例えば四国なら民家風とか。たいてい地方に行くと民家っぽい。
だから、モダンスタイルをたくさんの人間が同じようにやっている場所は都会以外にはまずない。
宮森/大阪もあんまりモダンじゃないよね。
遠藤/そうだね。だから当時の気分で言うと、東京の次は広島、ぐらいの感じだった。
広島派は別にグループでも結社でもないですが、何人もがわりと近い作風でやり始めていた、っていうのがあの頃の僕らです。
refnet.tv/そこには必然性をがあったんですか?
遠藤/ないですよ全く。みんな別の場所で建築を学んでいて、僕は東京だったし、宮森さんは京都大阪ですよね。
時代もあるんだろうけど、たまたまみんながバラバラと帰って来て、広島で活動をはじめてっていう。
その時もまだ全員が知り合いだったわけでも、申し合わせたわけでも、先生筋が同じだったわけでもないんです。趣向性がわりと似た物作りをする、という人間が本当にたまたま集まった。そういえば、昔一度、大阪VS広島をやろうって企画したことがあるんですよ。
宮森/そうそう。
遠藤/僕ら口べただから大阪でこてんぱんにされたんだけど(笑)。
その時に大阪の連中が僕らを揶揄して言った言葉があって、広島の連中がつくってるものは・・・
宮森/ハッピー・ヘルシー・ビューティフル。
遠藤/要するにおまえらは何も考えていないと。そして、健全で、きれいなものをつくる。
都市の苦悩だとか、生きていくのが大変だとか、そういうものがないと。
宮森/まぁ、「能天気な人たち」という感じですね。君たちには何も語る物がないのか、というような表現でしたね。
遠藤/僕らは僕らで苦悩しながらつくっているんだけど(笑)、彼らに言わせると、まぁそういうことらしいです。
refnet.tv/反論とかされなかったんですか?
遠藤/反論する術を持っていなかった(笑)。
宮森/そういう展開になるとも思ってなかったしね。もう殴られっぱなし(笑)。
遠藤/今だったら多少反論できたかなぁ(笑)。だけど、言われたことの半分は当たってるんだよね。
やっぱり広島は都市の状況がまだのんびりしているし、それほど過密でもない。
だから、ある意味のびのびつくれてるっていう部分もあったんじゃないですかね。ハッピー・ヘルシー・ビューティフルっていうのは、半分揶揄だし、半分はうらやましいという部分もあったんだと思います。僕、それは、カリフォルニアモダンと似てると思うんです。
もともと、アメリカの住宅にも屋根があったりするわけじゃないですか。
ケーススタディハウスだとか、チャールズイームズがやったあの作り方は、本当にあの時だけなんですよね。
たぶん、戦後の工業化と住宅を大量に供給しないといけないという時代背景の中で、建築家たちが作り出したひとつの解決法だったんだと思う。
プレハブリケーションの走りみたいな感じ。
 

refnet.tv/今も広島派の流れは続いているんですか?
宮森/僕ら、もう変えられないからね、つくり方を。自覚的にはないですよ。だけど、作家主義的な建築家が輩出されている、っていうのは続いてるよね。
refnet.tv/今では30代で活躍されてる方も沢山いらっしゃいまよね。
遠藤/僕らはほとんど第一世代なんですけど、展覧会やって数年の頃は、次が出ないなーという感じだったんですよ。
そういう時代が結構長い間あって、しばらくたってからボロボロっと出て来た。
宮森/僕たち、長い間、若手建築家っていう肩書きだったもんな(笑)。
遠藤/そもそも活動を始めたときも、僕らいいのかなーと思ってたのよ、みんな40過ぎてるのに。野球界で言ったらとっくに引退するぐらいの年でしょ。
最近は特に若い人が活躍しはじめたけど、昔はなかなか出にくかったですね。
宮森/今は若い人にチャンスが増えた。昔は仕事をさせてもらえなかったですからね。依頼主が増えたんです。
遠藤/昔はある程度経済的基盤がある人が建築家に発注していた。
refnet.tv/広島派でそれができていたっていうことは、一般市民にそれを受け入れる土壌があったということなのかもしれませんね。
遠藤/そうそう、それは今から思うとすごいことだと思いますね。当時は、やりたいことがやらせてもらえないっていう思いが強かったけど、
それでも実現させてくれる人たちがいたわけですからね。少数派といえども、広島でそういうことが起こっていたというのは、
根っこには広島に受け入れるっていうベースがあったということでしょうね。昔から移民が多い土地だしね。新規開拓スピリットというか。
refnet.tv/呉とかまさにそうですよね。戦時中から海軍の影響でいろんな人が集まってきてた。ハイブリッドというか、ミックスというか。
遠藤/僕もまさに流入族ですよ。親父は海上自衛官で。あちこち転勤してまわって、落ち着いたのが呉なんです。
子供のころ、江田島に住んでいたことがあって。江田島の海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)の中に官舎があったんですよ。
その官舎っていうのが、米軍が建てたハウスだったんです。
小学校の低学年の頃に洋風便器と、その前に洋風のバスタブが置いてあるバスルームでしたからね。
refnet.tv/あの時代に刺激が強いですね、しかも江田島で。
遠藤/広い芝生がだーっと広がってるところに、ポツンポツンとハウスが建っているわけですよ。洋風のバスタブは使い勝手が悪いから結局使わなくなって、改造して和風のお風呂造って。そういう意味では、広島という土壌に影響を受けている部分は多いかもしれないね。
refnet.tv/逆に、地方にいる窮屈さというか、地方にいては出来ないことなど、もどかしさはありますか。
遠藤/意外とそんなことははない感じがしますけどね。
宮森/世の中の流れから一歩引いて観察できる距離感が保てる地方だからこそ、ポストモダンに走らずにモダンを走り続けて日の目を見た、
というふうに澤登先生が展覧会の時に書いてくださっていましたね。

広島でペリアンを感じる建築

ペリアンと親交のあった丹下健三建築の広島平和記念資料館

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◎建築とインテリア

refnet.tv/建築家から見て、インテリアのどこまでが仕事の領域だと思われますか?
遠藤/全部ですね。
refnet.tv/できれば全部トータルでプロデュースしたいという感じですか?
遠藤/できればじゃなくて、全部ですね。目の届く範囲にないと気にいらない、というのがたぶん建築家だと思います。
宮森/僕はねぇ、逃げたいかんじ(笑)
遠藤/は全然逆。カーテンまでやらせてほしいし、ほとんどの仕事がそうですね。
宮森/僕らが建築を教わった時代はそういう流れだった。
生活全体をデザインするんだから、フォークナイフのところまでデザインしてはじめて成立するんだよ、という教育を受けてきた。
遠藤/家具や食器はセレクションですが、造り付けるものは全てデザインします。キッチンは、今まで既製品はを使ったことがないです。
100%つくります。もともとは、建築を始めた時、システムキッチンが高かったんですよ。だから、ローコストのために造りましょうっていうのがスタートライン。
広島はすごく特殊で、ステンレスのシンクをつくれる会社が多いんですよ。東京だと既製品を選りすぐって、持って来てはめないといけない。
広島なら、こんなの造ってて言うとトップと一体のシンクがすぐできちゃうんですよ。
宮森/広島派がモダニズムっていうのも、ローコスト派という言葉に置き換えることができますよね。予算がないからいろいろ切り詰めていく。
すると、余計なことができないからモダニストになっちゃうんです。お金持ちが邸宅を依頼することで、大阪や東京の人は需要と供給が成り立っていた。
広島は、富裕層が大都市に比べて少ないから、モダニストにならざるをえないという風潮がある。
遠藤/シンプルにつくるしかない、だから、高級な材料にも頼れないよね。僕らがスタートした時はそんな感じで、
シンプルイコールモダンというか若かったから、教育受けたことを真に受けているんですよね。一種の反動というか、モダンなものを刷り込まれている。
僕らの先生たちが憧れていた世界。モダニズムの洗礼を受けた人たちに教えられているから。
宮森/完全にそうですね。そういう面ではね、シャルロットペリアンは広島に生きてる、と言えるかもしれませんね。
僕らとにかくコルビュジエに憧れて設計を始めたみたいなところがありますから。もうコルビュジエが神様です。
溝口/ペリアンは建築家でもありますからね。来日の際に組み立て住宅の技術を日本に伝えたのはペリアンですし。
ペリアンは1939年にジャンヌレやプルーヴェらと共に研究をしていたSCAL(軽合金中央協会)の工員のための組み立て式住宅・移動式学校の図面を、来日時に坂倉準三氏に渡しています。その図面を元に、坂倉氏らは1940年から既に戦争組立建築として研究していたそうです。1950年に設計した加納久朗邸(千葉県知事などを歴任)では実際に戦争組立建築を採用しています。
因にこの住宅の一部の家具はペリアンが担当しているなどとても興味深い住宅です。
1942年に坂倉建築事務所(現在の坂倉準三建築研究所)の一員であった柳先生もプルーヴェの名前を当時よく聞いたことがあったそうです。
遠藤/日本人にとってペリアンは、コルビュジエの家具の共同者だったということでインテリアのイメージがついたと思うんですよ。
refnet.tv/私の場合、完全に家具から入ったので、後で、あ、建築家だったんだ、という感じでした。
最初、プルーヴェかと思ったらペリアンだった。だから、本当に後から出て来た感じです。
遠藤/僕なんかはプルーヴェが後ですね。しかも家具なんかはずっと後ですよ。最近と言ってもいい。
僕たちの時代はライト、コルビュジエ、ミース。ミース派かコルビュジエ派か分かれたりするんですけど(笑)。
refnet.tv/宮森さんはコルビュジエ派ですか?
宮森/僕はコルさんですね。僕はライト派で育ったんですけど、心はコル派ですね。
遠藤/みんな、3人を一回はなぞるんですよ。建築をはじめて一番最初に理解しやすいのはライトなんです。
だから初学者はライトから入る。で、その次にコルビュジエにいくんです。ミースは最後。
refnet.tv/インテリアの視点から見てもそうですか?
溝口/難しいですが、日本の人は殆どの人がイームズが入り口ですが、日本の住宅の雰囲気に合う、北欧デザインに行く人が多いですね。
イームズを大切に長年使用される方も沢山いらっしゃいますし、これという正解はないですね。
フレンチに行く人は、比較的少ないかも?所謂、フランスアンティークが好きな人は沢山いると思いますが。
宮森/溝口さんは、どこでどう興味を持って、今に至るんですか?
溝口/僕は、特にデザインや建築の学校で学んでいた訳ではなく、大学時代は法律を学んでいたんです。
だから、本当に形から入るしかなかったんですけど、通っていた大学内にある休憩所の椅子がたまたま洋書などで見ていた、モダンファニチャーセールス製のイームズのアームシェルチェアで、最初はただ単に色や造形が美しいなと思ったんです。
卒業後、社会に出てから、アメリカ西海岸に行って、ケーススタディハウスやノイトラ建築などを色々見て回ったのが本格的な出発点です。
そこで、運良くイームズのお孫さんに連れられ、普段入れないイームズハウスの中も見学させてもらったのですが、そこにある全ての物が衝撃で。
その時に、造形だけではなく置かれているもの全てのストーリーや本質の部分を知りたいと思ったんです。
ちょうどその頃、僕に家具の全てを教えてくれてた方から、デザイナーを評価してきたのは美術館ではなく、家具屋やギャラリストが多いっていうのを聞いていたんですね。実際にイームズもNew YorkのFifty-50という家具屋が1983年に「The Work of Charles snd Ray Eames : Sum of the Parts Exhibition」という展覧会を独自で開催し、
アメリカでは敬遠されかけていたイームズの仕事を再評価したんです。そのような活動が評価され、Fifty-50では、レイ・イームズが亡くなった際に、遺族の要望で全作品の鑑定も行いました。
また、プルーヴェやペリアンも同様に、80年代にパリのギャラリストが積極的に再評価の運動を起こしていきました。
彼らは70年代からプルーヴェやペリアンに直接会いに行き、歴史の事実を徹底的に調べあげたのです。そこからギャラリー内で展覧会を開催したり、自費でカタログを作ったりと、地道な活動を続けて来て現在があるのです。
そんな海外の家具屋のような活動を日本でもやりたいなっていう思いが強くありました。
売るという行為だけでは無く、できるだけ文化や歴史に根付いて作品を広めていくということをやりたかったんです。
そこで自分なりに調べていったのが、プルーヴェ・ペリアン・柳先生などの家具の歴史です。
ペリアンとの出会いに関しては、柳宗理先生の作品を初めて見た時に、モダンではあるんだけど、なんかちょっと他のデザイナーの作品とは違うなというイメージがあって、凄く惹かれたんです。
そして、柳宗理先生のことをいろいろ調べていくうちに、多大な影響を与えたのがコルビュジエやペリアンということを知ったんです。
遠藤/それもまた変わってるね。
溝口/そうですね。

refnet.tv/溝口さんは2008年に広島市現代美術館で柳宗理の展覧会があった時も関わってらっしゃったんですよね。
溝口/柳先生の事務所の方々と広島現代美術館の学芸員の方々と一緒に、企画と構成をお手伝いさせていただきました。
refnet.tv/今回のシャルロットペリアン展では、建築やインテリアに普段あまり接する機会のない方でも楽しめる見所のようなものはありますか?
溝口/うーん、感じ方は人それぞれなので、僕からここを見てくださいとは言えないんですけど、1940年代に、日本の政府がペリアンを招聘したわけですが、当時日本で活躍していた建築家やデザイナーがシャルロットペリアンにすごく惹かれていったんです。そのルーツが見えるのではないでしょうか。
refnet.tv/ちょうど第二次世界大戦中の頃のことですね。ペリアンはパリが陥落した次の日に船でパリを経っている。ドラマチックですよね。
宮森/戦争まっただ中にフランス人が、日本の仕事でやって来た。そういうのってアリなんですかね(笑)。
遠藤/まだその頃は、日本人もパリのあちこちにいたんじゃないですか。
refnet.tv/岡本太郎と同じ船だったようですね。
溝口/もともと政府がヨーロッパの建築家を呼ぼうと決めた時、政府から相談された柳宗理先生は、陶酔していたコルビュジエを招聘したかったんです。ただ、コルビュジエはビッグネームすぎるし、忙しいから無理だろうということで、そこで坂倉準三氏に相談したら、一緒に働いていたペリアンに白羽の矢がたったんですね。
refnet.tv/それがまた女性だったというのもすごい気がします。当時、女性の建築家自体珍しかったのでしょうし。
溝口/そうですね、20世紀で世界的に活躍した女性建築家はアイリーン・グレイとペリアンしかいないんじゃないでしょうか。
refnet.tv/今でも女性の建築家は少ないですか?
宮森/少ないのは少ないですね。活躍している人は多いですが。
遠藤/僕の持論なんだけど、建築をやる女性はものすごく男っぽいんですよ。でね、建築をやる男はものすごく女々しい(笑)。
溝口/ペリアンも職人さんを黙らせるほど、良い意味で強い人だったそうです。
宮森/学生なんかもね、男性の方が女性の概念の延長上で一生懸命やるみたいな例が多いんですよ。
女子学生の方がそうじゃないところから新鮮なものをつくる。
遠藤/考えてみたら工芸の世界だって女性の人が少ないですよね。
refnet.tv/そう考えると、女性であるペリアンの活躍の背景には、何かターニングポイントや時代性といったものがあったんでしょうか。
溝口/戦後になると特に、プラスチックなどの安価なものが大量に出回ってきたんです。特にエンドユーザーに
日用品の美を求めるのは凄く大変だったと思います。時代背景からして、住よりも食のことが優先される時ですからね。
ペリアンが活躍したのはちょうど、材料が手に入りにくかった時代ですし、女性の繊細な視点でしか捉えきれなかった部分も多かったと思います。
だからこそ妥協ができない。使命感に似た美意識がものすごく高かったんだと思います。他にもその時代のこんなエピソードがあります。
銀座松屋でグッドデザインのセールスマンとして活躍された、梨谷祐夫先生から当時のお話をお伺いする機会があったのですが、
先程お話ししたデザインコミッティーでは巨匠と言われる先生たちが、自分たちで団地まわって、ピンポン押して、これいいですよって説明してまわっていたそうです。良いものを一般の人々にも持ってもらおう、根付かせようという思いや動きが活発だった時代です。
そういう地道な努力があって、日本のモダンデザインの基礎が築かれたんじゃないかなと思いますね。

refnet.tv/今では、一般の家具屋さんや雑貨屋さんでもデザインされたものが手に入るというのが普通になりましたよね。
ハウスメーカーなんかがつくる住宅もデザインされています。先人の努力があってデザインが身近になったぶん、本物ではないものも溢れている時代だと思います。建築家としてそういう流れはどう感じていらっしゃいますか。
遠藤/全然ウエルカムですよ。それだけ興味を持ってもらったり、様々な選択肢の中にあるということの方が重要なことじゃないですか。
その中から本物志向が出てくるんですよね。そうじゃないと育たないと思うんですよ。美意識とか、生活者としての目だとか。
だんだん見る目が肥えてけば、僕らにも出番があるかなと(笑)。相当な人じゃないとプルーヴェ買おうなんて思わないですよね。
refnet.tv/プルーヴェファンは多いですよね。なぜでしょうか。
遠藤/僕もそれ聞きたい。ペリアンが好きっていう人は理解するよ、
だけどプルーヴェが好きっていう人はちょっとどっか切れてんじゃないのって気がする(笑)。
溝口/プルーヴェの作品を好む方は圧倒的に男性ですが、自らの手で仕事をしている人、特に洋服のデザイナーの方が多いですね。
職人気質というか、プルーヴェとご自身の仕事がリンクする部分が多いからではないでしょうか。
深い意味は無く、ただ単純に統計的に見れば、フランス人デザイナーの作品としては、ペリアンよりプルーヴェを入り口としている人が多いですね。
遠藤/僕は建築家としては、プルーヴェをすごく愛しています。僕にとってプルーヴェはデザイナーじゃなくて技術者なんですね。
エンジニアでありながら建築にも股かけてるっていう。だから入り口がプルーヴェって僕としては全く理解できない(笑)。
プルーヴェが一番端っこにある気がするから。ものすごいカルトな世界、常人が触ることのできない世界だと思ってる。
refnet.tv/98年にフランスで出た作品集の影響かもしれませんね。ギャラリー発信で、そのやり方も良かった。
遠藤/スポットライトの当て方みたいな感じですか。それは僕らの知らない話だなぁ。
宮森/洗練されきったコルビュジエやペリアンの作品から入って、逆にちょっとどんくさい、ローテクなプルーヴェがある。
こっちもこっちで魅力的だな、と僕らはそっちの方から入ってるところがあるからね。
遠藤/これも奥深いよね、これもありだよねっていう見方。真っ先に手にとるものじゃない、最後の最後にたどり着く割れ茶碗のような世界観(笑)。
refnet.tv/一概には言えませんが、私たちの周りの人は、アメリカのデザインに興味を持ち、フランスのデザインを好きになる人が多いかも知れません。イームズから入って、ネルソンを経てプルーヴェへ。
先生たちがライトから入ってコルビュジエを経てミースに行くような流れかもしれませんね。

◎「シャルロット・ペリアンと日本のこと」

refnet.tv/では最後に、1月21日から広島市現代美術館で始まる「シャルロット・ペリアンと日本」展について溝口さんにお聞きします。
今回日本で3カ所の巡回ですが、そのうちの一つが広島。意味やゆかりがあるのでしょうか?
溝口/今回のペリアン展はもともと、坂倉準三氏の設計した鎌倉にある神奈川県立近代美術館の開館60周年記念行事ということですが、地方では唯一広島のみ巡回します。いきさつとしては、2008年に柳宗理先生の展覧会が広島市現代美術館でありましたよね。
その時の構成についてみんなで考えていた時に、1941年の「伝統・選擇・創造」展で展示された、ペリアンが山形の新庄市の職人と製作(ぺリアンはおおまかな指導のみで、基本は職人による自由な発想)した作品を絶対に見せたいという話をしたんです。何故なら、柳先生を語る上でペリアンの存在は絶対に外せないからです。
また、このときの助手の経験が柳先生のルーツの1つにもなっていたからです。残念なことに1941年の作品の殆どは東京大空襲で焼けてしまい、遺っている一部の作品しか展示できませんでしたが、作品を通じて、当時のリアルな歴史を見ていただけたことは凄く意味があったと思います。
その柳先生の展覧会におけるペリアンとの背景を、広島現代美術館の学芸員の方々が凄く理解されており、今回ペリアン展を開催することが、広島のデザイン啓蒙に関わる意義を感じ取られていたのではないかと思います。
デザインの展覧会は海外に比べ、日本ではまだまだ認知されずらいですからね。ゴッホやピカソなど、誰でも知っている方が本当は集客率はあがりますし、基本平面なんで輸送も家具に比べれば楽ですから(笑)。その点、ペリアンって言っても知っている方はデザインが好きな方くらいですし、立体物だから輸送費も馬鹿にならない。よっぽどの責務を感じ取られていないと、出来ないことだと思います。
だからこそ是非、広島・中国地方の方だけではなく、九州や四国、近畿など近県の方々にも是非足を運んでもらいたいですね。
あと個人的には、1960年に日本で開催された世界デザイン会議で初来日し、そこで開かれた「大衆のための建築」「建築の工業化」という2つの講演を行ったジャン・プルーヴェを強く注目していた黒川紀章氏設計の同美術館で朋友ペリアンの作品がどう映るのかも、1つの楽しみですね。
refnet.tv/これも何かの縁かもしれませんね。
溝口/ペリアンが日本に来て京都と共に重点的に視察をしたのが東北であり、地元の職人さんたちです。
温かな人柄の東北の人たちをペリアンは心から尊敬していました。
東北は毎年冬に雪害に会い、農業が出来ないため収入がありませんでした。その冬の間、内職として自宅で工芸品を作っていたのです。
その工芸品をペリアンは指導する予定でしたが、職人の自由な発想には、日本古来から続く美の意識が既に宿っていたのです。
ペリアンはその素晴らしさを人一倍理解し、形のおおまかな指導しかしませんでした。その後、これらの工芸品はペリアンらの活動によって、後に東京などの都市で販売され、冬の収入を得ることができたのです。
昨年、東日本大震災という未曾有の惨事で、東北の多くの職人さんが仕事を失ってしまった現実があります。
そのような中で、東北に縁の強いペリアンの展覧会が開催されたというのは偶然とは思えません。
被災者の方々の仮設住宅も、歴史を辿ればペリアンやプルーヴェの研究によって日本に伝わって来ていたことなど、今回のペリアン展に日本全体の復興・文化再生の鍵があるのではないでしょうか。
 

 

この対談を終えて2日後、柳宗理さんが亡くなった。奇しくも、ペリアンが亡くなった年と同じ96歳。
ご冥福をお祈りするとともに、これも何かの巡り合わせなのだろうか、と思わずにいられない。

 

PROFILE
宮森洋一郎/1950年広島県呉市生まれ。京都大学工学部建築学科卒業。宮森洋一郎建築設計室主宰。
第11回吉岡賞(現新建築賞・1995年)、第5回ひろしま建築文化賞大賞(2006年)など受賞。

遠藤吉生/1954年広島県呉市生まれ。武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。遠藤建築スタジオ共同主宰。広島工業大学准教授。
American Wood design award2002、カナダグリーンデザイン賞(2002年)など受賞。

溝口至亮/1978年広島県広島市生まれ。SIGN共同主催。Tamotsu Yagi Design Public Relations兼任。
美術館の展示や書籍編集、インテリアスタイリストとして、企業広告や個人住宅などを担当。